受講料の多寡

なんというか、高額と思い受講料を払えないお陰でチャンスを逃すのは不憫である。

この「不憫」とは、自己憐憫の謂いである。

教育の機会を得る人は幸いである。得たものを更に分かち合えるからである。

教えるスタッフとしての私は、小学生の皆さんにプログラミングの学びのお手伝いをさせて頂いている。無給である。

プログラミングに関して、私自身の学びはと言うと、OJT であり、また自学自習である。

細かく言えば、試験料金やら書籍代金は掛かっているが、職務上にて身についたものも大であるし、どっこいどっこいである。

ところが、プログラミングを学びにお出で頂く小学生のご家庭からは、それなりのお代を頂戴している。我が家的な基準においては、娘にそんなに払わせられねんでね?って程度の、相当の額である。

それに見合って働きを期待され、用いられる私自身は有り難いことこの上無い。

ところが、生業の埒外にある分野は如何?

いまや専門外となってしまった、大学院まで行った西洋哲学など、学び直そうとすると、相当な金額を要する。(いまさら学部水準の学び直しでは評価が得難いということ!)

はたまた、今の私は明治以後のキリスト教会の立地について興味を持っているのだが、どこでどなたの教えを乞うてよいものやら?

発達障害をもつ長男のための学びも、金額が高いものがあり、申し訳ないが、疎かになっている。

エス様、私に相応しい学びの機会をお与えください。会社の社長が求める資格の勉強のみならず、家族や友を信仰に導くために充分な学びを与えてください。

そして私を御国のために用いてください。

エス様あなた自身のお名前によって祈ります。アーメン。